名曲『ボレロ』などで知られるモーリス・ラヴェル(1875~1937年)。フランスの、そして世界の近代音楽にとって欠かせない、今も多くの楽曲が世界中で演奏されている人気作曲家です。

音楽のユニークさに加えて、人柄やその人生もエキセントリックなところがありました。結婚することのない生涯をおくり、女性の恋人の噂もほとんど聞きません。

からだがとても小さく(160cm)、でもとびきりのお洒落で、子どもや動物が大好きな、優しく寛大な心の持ち主だったと言われています。

そんな愛すべき音楽家ラヴェルは、どんな子ども時代を送っていたのでしょう。まずはその出生から、天才の秘密をひもといていってみましょう。

案内人

  • だいこくかずえ小さな頃からピアノとバレエを学び、20歳までクラシックのバレエ団に所属。のちに作曲家の岡利次郎氏に師事し、ピアノと作曲を10年間学ぶ。職業としてはエディター、コピーライターを経て、日英、英日の翻訳を始め、2000年4月に非営利のWeb出版社を立ち上げる。

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発明家の父、スペイン育ちの母

モーリスの父ジョセフはフランス東部の小さな村の出身でした。スイス国境の近くだったことから、ジョセフの父、エムはスイスに移り住み、スイス国籍を取得します。

モーリスの父ジョセフは、大変な音楽好きでピアニストになる夢をもっていました。ジュネーブの音楽学校で、何年間か学んだこともあります。しかし音楽の才能と同じくらい、機械学にも長けていて、工学の道に進んで技師になりました。発明家でもあったジョセフは、ガソリンで走る車の仕組の発明もしたとか。

モーリスの母マリー・エリュアーテは、スペインとフランスにまたがるバスク地方のシブールという村で育ちました。マリーはフランス側の生まれでしたが、のちにスペインの親戚の家に住むようになります。そしてアランフェス地方にいたとき、鉄道建設の技師としてスペインにやって来たジョセフと出会い、1874年、二人は結婚します。

美しい自然と暖かな気候に恵まれた母の故郷の村で生まれたモーリスは、誕生後少しして、パリに居を移します。パリで暮らすようになっても、ラヴェル一家はたびたびシブールを訪れ、幼いモーリスはそこで見たり聴いたりした地元の音楽や踊りにすっかり魅せられます。

手品と魔法と機械好き

パリに移ってから3年後、弟のエドワールが生まれます。二人はとても仲がよく、活発さが高じて近所から苦情が出るほどでした。母マリーは「小さな悪魔たち」と呼び、二人の茶目っ気ぶりにはかなり甘かったようです。モーリスは優しいお母さんが大好きで、お母さん子のところがずっとありました。

そんなモーリスの茶目っ気ぶりは、手品や魔法への関心に発展します。人をびっくりさせるのが大好きで、友だちを驚かすために役に立ちそうな本を、小遣いをためては買っていました。手品を練習しては友人たちに見せたり、マッチ箱で精巧な小さな家をつくったりもしていました。

子ども時代のモーリスは、機械ものが大好きで、父親がつくったおもちゃや機械類をバラバラにしたがったそう。あの『ボレロ』の永遠につづくかのようなリズムの繰り返しは、工場の機械音が発想の元とラヴェル自身が告白しています。(注1)

注1:モーリス・ラヴェル「工場で音を見つける」(New Britain誌、1933年8月)

モーリス7歳、父と連弾の日々

パリのアパートにはピアノが1台あって、それは父のジョセフが若き日の楽しみを再開するためでした。ジョセフがピアノを弾きはじめると、小さなモーリスは遊びをやめて、そばで演奏を聴いていました。父のひざの上で、鍵盤にふれることもありました。

ジョセフは息子に音楽の才能があるのでは、と感じて、7歳になったとき、ピアノの先生をつけます。ジョセフには音楽家の友だちが何人かいて、その中に『アマリリス』の作曲家、アンリ・ギスがいました。ギスはレッスン最初の日の日記にこう書いています。

1882年5月31日。今日、まだ小さなモーリス・ラヴェルのレッスンをはじめた。この子はとても賢い。

やがてモーリスのレッスンが進むと、父と息子は連弾をするようになります。仕事から帰ると、父は息子を誘って毎日のようにピアノを弾きました。父の好きな曲は連弾用の『タンホイザー』(ワーグナー作曲)の序曲で、いつも父がこれを弾きたがるので、息子のモーリスはしまいには飽きてしまったといいます。

12歳になった1887年、学校の授業でハーモニーを習うことになり、モーリスは和声や対位法、作曲に心奪われるようになります。シューマンのコラールをテーマに変奏曲を書いて、先生のシャルル・ルネを驚かせたといいます。作曲の過程は、機械類をバラしたり元に戻したりするのと同じ興奮をモーリスにもたらしました。

天才少年×2、生涯の友あらわれる

14歳になったモーリスは、パリ国立高等音楽院のオーディションを受けて合格し、入学することになります。

入学してすぐに、モーリスはリカルド・ビニェスというスペインからやって来た少年と出会います。スペインはモーリスの憧れの地でした。のちにビニェスは著名なコンサート・ピアニストになり、ラヴェルの曲をいくつも初演し、自分のコンサートでも、積極的に楽曲を取り上げて弾きました。

ビニェスとラヴェルは家族ぐるみの付き合いがあり、学校を離れても一緒に過ごす時間がたくさんありました。二人の少年はピアノの前に陣どると、四手連弾用の曲を何時間も弾きつづけました。中でも近代の作曲家の曲がお気に入りでした。

当時ラヴェル一家はピガール広場を見おろす一角に住んでいました。二人の少年はアパート6階のバルコニーに出て、星を眺めては天文学の話をしたり、下の広場でお祭りがあれば回転木馬の音楽に耳を傾けたりと、何につけ仲のいい気の合った友だちでした。

音楽的才能に恵まれていた二人ですが、ビニェスのピアノが天才的だったのに対し、モーリスは練習嫌いで、思いついたメロディーを即興で弾くことの方がずっと好きでした。また本人の弁によれば、ソルフェージュを学んだことはなく、初見が苦手だとか。

エリック・サティとの出会い

ラヴェルのつくる曲は、奔放なハーモニーの多用など、当時の常識からみて、先生を驚かせるところがありました。また子ども時代の茶目っ気そのままに、クラスメートの前で、よく知られた曲をもじって弾いたり、みんなの知らない風変わりな曲を披露したりしていました。

音楽院1年目の年、パリ万国博覧会が開かれました。モーリスはそこでジャワからやって来たガムラン音楽を聴きます。聞き慣れない音の進行や複雑なリズムをもつ東洋の音楽は、モーリスにとって大きな衝撃でした。

この頃、モーリスが心から惹きつけられた音楽家がいました。ある日モーリスが学校から帰ると、父親が見知らぬ人と話していました。無頓着な服に尖ったあごひげ、ユーモアに満ちた眼差し、それはエリック・サティでした。父親が「息子は近代音楽に興味をもっているんです」と紹介すると、サティは苦笑いしながら「人はわたしをモダンと言うけれど、それは称賛ではないんです」と返したそうです。

少年だったモーリスにとって、サティから受けた影響は非常に大きいものがありました。1910年、ラヴェルが著名になった後のことですが、売れない作曲家だったサティの作品を紹介するコンサートを開きました。それが若手作曲家たちの注意を引き、サティ・ブームの先駆けとなりました。

必ずしも優等生ではなかったモーリスですが、自由な家風のもと、友だちや先生にも恵まれて、持てる才能をいかんなく発揮できた、そんな豊かな子ども時代が、ラヴェルの精緻であると同時に自由奔放な作風を作ったのかもしれません。

参考図書:マデリーン・ゴス著『Bolero: The Life of Maurice Ravel』