楽器は、作曲家の発想の源であり、また創作に制約を課す存在でもありました。楽器を手がかりに楽譜を眺めると、名曲もまた異なった表情を見せるでしょう。
ここでは、F.シューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」を例に、楽器と名曲の関わりを考えてみます。
演奏楽器の失われた名曲「アルペジョーネ・ソナタ」
シューベルトの室内楽作品の中でも人気のある「アルペジョーネ・ソナタ」。
その名の通りアルペジョーネという楽器とピアノのために書かれたものですが、アルペジョーネという楽器は今日では廃れているので、現在ではチェロやヴィオラによる演奏でおなじみですね。
悲運の楽器アルペジョーネ
「今日では廃れている」と書きましたが、そもそもこの楽器は、シューベルトの時代においても決して一般的な楽器として広まったものではありません。
J.G.シュタウファーという製作家が発明したとされるこの楽器、残念ながら普及するまでもなく音楽史から姿を消してしまいました。
同時期に、P.トイフェルスドルファーという製作家が同様の楽器を独自に発明したともいわれています。
外見はチェロによく似たアルペジョーネ、チェロと同じく縦に構えて演奏します。大きな違いは弦の数で、6本の弦がギターのように完全4度の間隔で張られていて(一カ所だけ長3度)、低音側から音名で調弦を書けばE – A – d – g – b – e′となります。
さらに、ヴァイオリンやチェロの仲間と違って、音の高さを決めるためのフレットが指板上にある点もギターによく似ていますね。チェロのように構えて、弓で弦を擦って弾くギターだと思うとイメージしやすいかもしれません。
この誕生したばかりの楽器のために、友人からソナタを書くように依頼されたシューベルト。
彼は1824年11月に、素晴らしい、そして音楽史上ほぼ唯一ともいえるこの楽器のための名曲を完成させました。
しかし実際にこの曲が初めて出版されたのは1871年のことで、アルペジョーネはとっくの昔に忘れられていました。
シューベルトのソナタが作曲後すぐに出版されていれば、アルペジョーネという楽器ももう少し広まったのかもしれませんね。
シューベルトによる楽器の活用術
最近では、アルペジョーネの復元楽器を使ってシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」を演奏する演奏家も現れています。
例えば、ベルギー人チェリストのニコラ・デルタイユ氏は、復元されたアルペジョーネを使い、巨匠パウル・バドゥラ=スコダ氏のフォルテピアノ伴奏でこの曲を録音しました。
このCDは、フーガ・リベラというレーベルからリリースされています。
デルタイユ氏は、別のピアニスト(A.ルディエ氏)とともにこの曲を演奏した動画をYoutubeにアップしています。
この動画を見ると、シューベルトがこの楽器をいかに活用したかがよく分かります。さっそく、第1楽章を見てみましょう。
「アルペジョーネ・ソナタ」第1楽章
フレットを用いるアルペジョーネだけあって、透明感あるくつろいだ響きがきこえてきます。
チェロによる演奏だと高音域が緊張感を伴う肉感的な響きになってしまいますし、ヴィオラだと低音域がつらくなりますが、さすが本来の楽器だけあってシューベルトらしい美しい旋律が無理なく歌われていきます。
シューベルトがこの楽器をうまく活用していることがよく分かるのは、提示部の最後に現れる重音のピチカート(動画の3:40あたりから)。6弦あるこの楽器にふさわしい厚みのある和音が鳴り響きます。
弦を4本しか持たないチェロやヴィオラの演奏だとどうしても音を省略せざるをえない部分です。
展開部の最後(動画の9:00あたりから)も要注目です。
アルペジョーネが高音域から力が抜けたように下降してきて、しまいにはこの楽器の最低音にたどり着きます。
この最低音が開放弦で、つまり指板を左手で押さえないで響く時の寂寞とした味わいは、何ともいえません。
「アルペジョーネ・ソナタ」第2楽章・第3楽章
同じようなことは、第2楽章・第3楽章にもいえます。第3楽章で興味深いのは、ニ短調部分(動画の5:20あたりから)。
16分音符でDのオクターブが鳴り響く箇所ですが、この時の下のDが4本目の開放弦にあたるため、楽器がブイブイとダイナミックな音を響かせます。
発明されたばかりの楽器のためにソナタを書くはめになったシューベルトですが、楽器の特徴を実によく活かしていますね。
他の楽器による演奏は?
復元楽器による「アルペジョーネ・ソナタ」の演奏はとても興味深いものですが、現実的には、アルペジョーネという楽器は現代ではほとんど使われていません。となると、何らかの代用楽器による演奏が必要になります。
最初に述べたように、チェロやヴィオラによる演奏がよく行われていますが、コントラバスやフルートの演奏家がこの曲に挑戦することも多いようです。
しかし、音域が広く、弦の数が多いため和音を得意とするアルペジョーネの代役を務めるには、どの楽器でも困難が伴います。
例えば、チェロでは高音域を多用しなくてはならず、やたらと演奏が難しくなります。
もちろんその難題に挑むチェリストの技量と努力は立派なものですが、結果として演奏がやたらとハイテンションなものになっては興ざめです。
逆に、ヴィオラでは低音域が足りなくなることが多く、アルペジョーネの広い音域を駆使したシューベルトの工夫が活かされないかもしれません。
しかしこうした難点によく留意して演奏すれば、それを克服した演奏も可能になるでしょう。そのためにも、アルペジョーネを使った演奏に耳を澄ますのは有益だと思います。
もしかしたら、代用楽器としてはヴィオラ・ダ・ガンバが有望かもしれません。
ヴィオラ・ダ・ガンバはバロック時代まで使われていた楽器で、チェロと同様に縦に構え、ギター風の調弦とフレットを持つ点で、アルペジョーネに性格が似ているのです。
まだヴィオラ・ダ・ガンバ奏者がアルペジョーネ・ソナタに挑んだという例はきいたことがありませんが、どなたかのチャレンジを楽しみにしたいと思います。