解剖学、認知科学、あるいは身体性といった文献を漁るように読んでいた時期があります。その分野では当たり前のことなのでしょうが、もしこの情報を音楽家が共有出来ていればどれだけ有利かと思われるものが幾つもあり、目から鱗の落ちる思いがしました。例えば、アレクサンダー・テクニークで言われる「プライマリー・コントロール」です。運動は中枢神経系の集中している頭・首・肩あたりから起こるので、そこから運動を体制化できれば有利であろう…こうした知見を知ることが出来ていたら、音楽家の挫折をどれだけ減らすことが出来るでしょうか。
今回は、演奏や音楽に役立つであろう、身体についてのいくつかの知見を紹介させていただきたいと思います。

 

内向きの身体

身体には、大きく分けてふたつの捉え方があります。ひとつは、身体をひとつの構造と見做す内向きの身体。もうひとつは、身体を環境との関係から捉える外向きの身体です。
演奏の際にまず行き当たる身体は、自分の指や呼吸などの体の制御でしょうから、まずは内向きの身体が意識されることになるでしょう。特に、記憶は音楽にとって重要な位置を占めることになる身体の機能です。

 

感覚記憶、短期記憶、長期記憶

練習の根幹は、記憶を作り出すことでしょう。そして人間の記憶は構造を持っています。認知科学では、中枢神経系の処理を知覚系、認知系、運動系の3つに分けて考え、記憶はこの中の認知系の活動です。
記憶の分類にはいくつかの方法がありますが、記憶していられる時間から分ける方法があります。その場合、記憶は感覚記憶、短期記憶、長期記憶の3段階に分けることが出来ます。感覚記憶の保持期限はおよそ1~2秒で、この中から意識されたものが短期記憶に移ります。短期記憶における記憶の保持時間はおよそ20秒で、またその容量は同時に7つ前後までしか記憶できません。この短期記憶にあるものに対し、リハーサルを重ねることによって、短期記憶は長期記憶に固定化されていきます。

また、長期記憶は宣言的記憶と非宣言的記憶に分けて捉えることが出来ます。非宣言的記憶とは非意識的かつ言語表明できない類の記憶で、演奏技術は非宣言的記憶のうち、手続き記憶と呼ばれる記憶に相当します。手続き記憶は、身につきにくく、忘れにくい記憶です。

 

記憶の特性と演奏の関係

こうした記憶に関する知識がどのように演奏に関係するのか、簡単な例をいくつか挙げてみます。まずは、感覚記憶から短期記憶への移行の際に、記憶されるべきものの選定が行われている事は、音楽家には注目に値する特徴でしょう。「何を記憶するのか」を明確にしないと、記憶する対象から抜け落ちてしまう可能性があるからです。ピアノ教師のジョルジ・シャンドールは自著の中で練習を「意識的に頭脳によってコントロールされなければならない」と述べていますが、それはこのような理由があっての事でしょう。演奏練習にしても暗譜にしても、記憶を行う際は、何を記憶しようとしいているのかを明確にすると、効率は上がるでしょう。

短期記憶の保持期間の短さも注目に値します。授業中に理解したと思った事が、授業の終わりには忘れていた経験はないでしょうか。それは短期記憶の保持期間がおよそ20秒しかないことに起因しているのかも知れません。20秒は、その時には覚えていると自覚するに十分なだけの長さがあるだけに厄介です。しかし、20秒後には消えているのです。覚えなければならないことは、短期記憶から長期記憶に移す必要があります。覚えるべきことは、「わかった」「出来た」で終わらせずに、リハーサルを繰り返して長期記憶にしてしまうと効率は上がります。ちなみに、長期記憶に移されたものでも忘却が起きます。忘却が大きく生じるのは記銘から24時間後、72時間後、6~7日後であるそうです。そのタイミングを目安にしておくと、記憶の維持が効率化できるでしょう。また、睡眠は不要な情報を捨てて必要な情報を残します。寝る前にその日に記憶しておくべきことを復習すると効率的です。

手続き記憶の特性は、楽器演奏者にとっては特に示唆に富むものでしょう。この含意するところはいくつかありますが、まずは「記憶しにくい」という点です。楽器が上達しない場合、その理由のひとつは、単純に練習時間が足りない可能性があります。「記憶しにくい」は具体的にどのようなものでしょうか。ある社会心理学者の本によると、週に1度では大きな上達は望めず、週2度で上達の速度は格段に上がり、週2度と3度はあまり変わらず、ほぼ毎日でさらに成果は向上するそうです。また、かつて流行した「1万時間の法則」は、ジャーナリストのマルコム・グラッドウェルがある心理学者の研究成果を書籍化したもので、ある分野のプロが成功を収めるために要したスキルの習得時間の平均を示しています。この情報は、「1万時間練習すればプロレベルになれる」といったような誤った解釈をしてしまうと危険でしょうが、一定の成果を上げるためにかかる時間の目安として使うには有益かもしれません。
さらに、「手続き記憶は記憶しにくい」という事は、なるべく手続き記憶ではない方法での記憶を心がけると有利であるという事でもあります。ある楽曲の演奏のすべてを運動の記憶として覚えた場合、記憶には膨大な時間がかかるでしょう。しかし、楽曲の記憶の一部を宣言的記憶とした場合にはどうなるでしょうか。演奏は、多くのスポーツよりもさらに複雑で精緻な運動が要求される分野です。運動の記憶に頼り過ぎないことは演奏にとって重要な知見となるでしょう。
もうひとつ注目すべきは、「記憶すると忘れにくい」という点です。誤った演奏の仕方を身につけてしまうと、それを消すのに労力がかかるという事です。つまり、間違えた方法でのフォームを身につけてしまうと修正に時間がかかる事、間違えを何度も繰り返す練習を続けてしまうと間違える練習をすることになってしまう事、などを含意しているでしょう。

『シャンドールピアノ教本―身体・音・表現』ジョルジ・シャンドール著、岡田暁生訳 春秋社
『上達の法則』岡本浩一
『天才!成功する人々の法則』マルコム・グラッドウェル著、勝間和代著、講談社
『グレン・グールド 未来のピアニスト』青柳いずみこ 筑摩書房
『音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク入門』 ペドロ・デ・アルカンタラ著、小野ひとみ監訳、今田匡彦訳

演奏家が理解すべき記憶と身体のこと(後編)