「記譜法の発明」の後編。今回は現在の記譜法に至った「とある偶然」と「休止だけの楽譜」、そして「楽譜作成ソフト」について。
現在の「記譜法」になったのはバタフライ効果?
突然ですが、クラシック音楽を事実上の音楽のスタンダードたらしめた記譜法にまつわる「バタフライ効果」についてすこし触れてみたいと思います。「バタフライ効果」というのは、チョウのはばたきがはるか遠方の気象に変化をおよぼすという意味の気象学用語、あるいはカオス理論の説明で引き合いに出される用語。初期条件がほんのちょっと異なるだけで、予測不能な結果が生まれる意味でも使われます。
クラシック音楽の楽譜でまず思い浮かぶのはその用紙、つまり「紙」の変化。中世ヨーロッパで「紙」と言えば羊皮紙、もしくは子牛や子羊の皮革から作ったベラム皮紙のことで、たいへん高価な貴重品でもありました。たとえば中世アイルランド修道院文化の生んだ傑作『ケルズの書』も、ベラム皮紙にさまざまな装飾文様が描かれています。
この「紙」の変化と記譜法がどう関係しているのか。それは1450年以降に主流となる「白色定量記譜法」発明のきっかけとなった変化であり、個人的にはこれが記譜法におけるバタフライ効果に当たるのではないかと思っています。白色定量記譜法とはそれまでの符頭を黒塗りした「黒色定量記譜法」に取って代わった新しい記譜法で、現代の楽譜はこの白色定量記譜法の直接の子孫、と言えます。
黒色定量記譜法の時代はインクにじみのない羊皮紙の時代でしたが、13世紀、アラビア文化圏を経由して中国から伝来した木材繊維の紙の場合、インクが裏面にまでにじんで両面使用ができなくなったため、その対策として白抜きの音符が考案され、さらには黒色定量記譜法の時代にはなかった四分音符や八分音符なども出現。後者の変化は音の長さの分割法が従来の3分割から2分割へと単純化したことがおもな原因ですが、記譜する「紙」の質が激変したために引き起こされた一連の変化、ということは言えるでしょう。グイード師の発明とこの「紙」の普及が、いま見るかたちの西洋音楽の楽譜が定着した大きな理由かと思われます。ちなみにこの黒色定量記譜法から白色定量記譜法への移行期に活躍していたのがフランスのギヨーム・デュファイで、彼の筆写譜はある時点から黒色→白色定量記譜法へと切り替わっています。
ギヨーム・デュファイ『もしもしわたしの顔が青いなら(1430頃)』[演奏:カンティカ・シンフォニア]
これぞ究極の楽譜? ケージの『4分33秒』
楽譜は楽曲の演奏に不可欠のツール。でも厳密な設計図というわけではなくて、むしろ楽譜に書かれていない暗黙の了解を前提としている部分がたいへん多く、設計図というよりは必要最低限の指示書き、と言ったほうが正確でしょう。たとえばバッハのオルガンコラール作品によく見られるフェルマータは「曲の終わり」ではなく、「コラールの各節の終わり」を示すにすぎません。バッハは、「みんなも知ってるよね」という了解のもとにこのフェルマータを記入しているわけです。だから「歴史的奏法」というのは、とくにバロックとそれ以前の古楽を演奏する側にとってはきわめて重要な問題になります。当時の演奏慣習は古典派やロマン派とはまるで別物だということを知っておく必要があるからです。
古典派以降、記譜法はほぼ現代のものとおなじスタイルに到達しましたが、ここでやっかいな問題がいろいろと出てくるようになります。たとえば海賊版の横行とか、エディションちがいの問題とか。たとえばハイドンの場合、彼の弦楽四重奏曲や交響曲は当時からたいへん人気があり、ハイドンみずから海賊版対策として「同一作品を複数の版元やパトロンに売り込む」という、いまだったら詐欺まがい行為として訴えられそうなことを平然と行っていたそうです。
また、エディションの問題でもっとも有名なのはブルックナーでしょう。作曲した当人が優柔不断だった(?)せいか、同一の交響曲に何通りものヴァージョンがあり、また後代の校訂者によってもハース版あり、ノーヴァク版ありで、いったいどれを聴けば / 演奏すればいいんだ! とボヤきたくなるもの。さらにはアール・ブラウン(1926-2002)のような前衛的な作曲家は「図形楽譜」なるものまで編み出しており、クラシック音楽の楽譜はますますワケワカラン方向に。
そんな肥大化・複雑化した楽譜について、音楽というものの価値観ごとちゃぶ台返しするような作品が現れます。それが、ジョン・ケージ(1912-92)の作曲した『4分33秒(1952)』。楽譜はいちおう第1楽章から第3楽章まで割り振られていますが、そこに書かれているのは「休み[tacet]」、このひと言だけ。楽器指定もとくになく、この作品の初演時はピアノで「演奏」されたのですが演奏者はなにもせず、ただピアノのフタを「閉めて」、楽章ごとの区切りでまたすこしのあいだフタを開け、最後にまたフタを開けてお辞儀して退場した、ということです。
ケージの活躍していた20世紀半ばには絵の世界でも、なにも描いていないまっさらなカンヴァスそのままを差し出すような「芸術作品」もありました。そもそも絵とは、音楽とはなんぞや、と問う傾向の作品がウケていたという時代背景がそこにはあった、と言えるかもしれません。
ジョン・ケージ『4分33秒』[演奏:ウィリアム・マークス]
現代を生きる作曲家の右腕、楽譜作成ソフトの出現
21世紀になると、本の世界も従来の紙に印刷された本からKindleのような電子書籍が登場したりで大きな変革の波が押し寄せていますが、楽譜を書くツールも劇的に変化しています。それまで作曲家は五線紙と鉛筆と消しゴムがあればいつでも、どこでも曲は書けました。でもおそらく現在は、紙と鉛筆(あるいはペン)で曲を書く向きは少数派で、むしろ楽譜作成ソフトと呼ばれるコンピュータソフトウェアで曲作りする、という人が圧倒的に多いのではないでしょうか。
その楽譜作成ソフトの代表格が「Finale」と「Sibelius」。作曲コンクールでも、なんと応募者の半数近くがこのような楽譜作成ソフトで清書した譜面を提出してくるとか。音源につなげばじっさいの音の鳴り方が確認できる、パート譜を瞬時に作成可能、といった手書き楽譜では逆立ちしてもできない「芸当」を難なくこなすのがこういったソフトウェア最大のメリットと言えるでしょう。もっともMac OSとWindows間でのファイル互換性の問題など、ハイテク製品ならではのヤヤコシイ問題をいくつか抱えてはおりますが、いずれこのような不具合もなくなっていくものと思われます。
コンピュータで音楽を作る、いわゆるデスクトップミュージック[DTM]とか「打ち込み」とか言われる技法は、出版界におけるDTPと同様、作曲のあり方そのものをも変える可能性というか破壊力を秘めているようにも感じます。でも同時に、たとえばバッハの手書き楽譜はいまや値段がつけられないほどの人類共通の財産として残されているのに対し、このような作成ソフトで作られた「楽譜」にどれだけの価値があるのかは疑問です。
また、グイード師が遺してくれた技術は今日でも解読可能ですが、「Sibelius」で作った作品の楽譜データを読もうとしたら互換性がなくて失敗した、なんてことも今後あり得ると思います(これはKindleなどの電子書籍データにも当てはまります。将来、端末の互換性がなくなって、昔購入した『星の王子さま』が読めなくなった、なんて笑えない話が現実になるかも)。けっきょく従来のアナログな技術と最新デジタル技術にはそれぞれに長所があり、両者が共存共栄してゆくのがベストなのかもしれません。
Sibelius 7によるチャイコフスキー『交響曲 第6番』の「第1楽章」から
紙の楽譜は消滅するか?
演奏者にとって楽譜とくると、譜めくりトラブルという問題もあります(以前、ある演奏会で伴奏者が楽譜を落として束の間「静かになった」ことを経験しています)。だいぶ前にNYTimesの電子版だったか、紙の楽譜を使わずにiPadを楽譜として使った演奏会が開かれたという記事を見たことがあります。このiPad楽譜の最大の利点は、譜面台に備え付けられたペダルを踏むことでパッとつぎの譜面に切り替わる、というもので、演奏者によると譜めくりから解放されたと評判は上々だったそうです。
しかしその後、筆者が「iPad楽譜」を使用した演奏を目にしたのは昨年、Eテレで放映された番組で見たバルトーク作品を弾いていた邦人ピアニストのケースのみ。とはいえiPad楽譜使用の演奏会というのも少しずつではありますがだんだんと増えてはいるようです。
いずれは電子書籍ならぬ「電子楽譜」が主流になるときがやって来るでしょうが、膨大な楽曲データの長期保存や互換性といった問題はいまと変わらず悩みのタネになることでしょう。これは絵画や中世の貴重な写本などをデジタル化して保存する場合にも共通する問題で、このへんをどう克服するかが電子楽譜普及のカギになってくるものと思われます。
日本製の2画面デジタルスコア端末「GVIDO」の使用例