20世紀はアメリカの時代と言われ、映画から音楽、食文化にいたるまで、さまざまな潮流がここから生まれ世界を圧巻しました。クラシック音楽界では、現代音楽のジャンルでコープランド、ケージ、ライヒなど日本でも知られる作曲家が活躍した時代です。その同時代の作曲家の中から、ジョーン・タワー、ポール・ボウルズ、ポッツィ・エスコットの個性派3人のインタビューを連載で紹介します。

インタビュアーは、シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィー。クラシック音楽専門ラジオ局Classical 97で、1975年から2001年まで、1600人を超える音楽家のインタビューを行ない、1991年に米国作曲家作詞家出版者協会のディームズ・テイラー・ブロードキャスト賞を受賞しています。インタビューの日本語版は、ブルース・ダフィー本人の許可を得て翻訳したものです。

ジョーン・タワー(Joan Tower, 1938 – )について:作曲家、ピアニスト。交響詩『セコイア』(1981年)で名を知られるようになり、『Silver Ladders』(1990年)で、女性で初めてのグロマイヤー賞(作曲部門)を受賞。2008年には、『Made in America』のナッシュビル交響楽団のレコーディングでグラミー賞3賞(作曲、アルバム、オーケストラ演奏)を受けている。

*このインタビューは1987年4月シカゴで行なわれたものです。

 

作曲家と演奏家のあいだにある問題

ブルース・ダフィー(以下BD):音楽はいま、どこに向かってるんでしょう?

ジョーン・タワー(以下JT):音楽ってどの? ポップスもあれば、クラシックもあるし、フォークだってあるし。あらゆる種類の音楽があるけど。

BD:さまざまな音楽の境界が、不鮮明になってるってことでしょうか?

JT:まだ充分じゃないわね。もっとこの境界が混じり合っていった方がいいと思っているの。

BD:どうして?

JT:クラシック音楽は過去の遺産の重荷に苦しんでいるから。今を生きているポップ・ミュージックと比べるとね。ある意味、ポップスは健全だと思う。この手の音楽はどこでもいつでも提供されているし、話題にされ、競争し合い、売り買いされてる。なのにクラシック音楽は今も、過去の中に埋もれてる。

BD:じゃあ、クラシック音楽は健全じゃない、と思うわけ?

JT:もう死んだ作曲家たちに関して言えば、健全だとは思えない。ベートベンは自分に並ぶ人が必要で、それによって音楽というのは、名曲みたいにいつも安泰なものじゃない、と気づかされる。だからそのことをもっと考えなくちゃいけないってこと。新しい音楽のいいところは、反応を引き起こすこと。「自分はこの音楽が好き? それとも嫌い?」って。聞き手というのは、音楽そのものに反応するから。でもベートーベンに対してはそうじゃない。

BD:違う演奏者による「素晴らしい交響曲」を聴きにくるだけってこと?

JT:そう。聴衆は演奏者に反応するの。

BD:責任の一因はレコード会社にあるのかな?

JT:まあそうね、レコード会社っていうのはお金を儲けるための組織で、利益が得られるかどうかで成り立ってる。どうやってレコードを売るかは、レコード会社にとって切実な問題でしょ。そのことで、自分たちは汲々としてると感じてる。業界自体が不安定なのだから、どうすることもできない。それで過去の名作を再販するの。するとみんなが買うだろうと思うような、有名人ばかりになってしまう。レコード会社が歩む道っていうのは、ものすごく狭いものだけど、選択肢はないの。それはお金を稼がなくちゃいけないから。

BD:ビッグネームじゃない作曲家のレコードをどうやって人々に買わせたらいいのかな。

JT:とても大きな問題に取り組まなくちゃね。複雑にして本質的な問題よ。一つは教育と関係してる。今後どんな子どもたちが現れてくるかよね。その子たちは何を面白がるかしら。国民の大多数に、音楽の活力を与えられるものが求められる。すごく難しいことで、レコード会社がやりきれることじゃない。それが仕事ではないからね。

BD:コンサートのプロモーターやレコード会社は、MTVを見ている人たちを狙えばいいのかな。

JT:そうしようとしてるんじゃない。でも死に馬にむちを打つことになる。興味ないんだから。

BD:じゃあ、どうやったら興味をもたせられるんだろう。

JT:子ども時代の教育だと思う。政府もこのことはわかってる。全米芸術基金はこのことに注目して、小学校や幼稚園が通常求められている以上に実のあることをしようと、教育の前面に打ち出している。草の根レベルで手をつけられる必要があるの。それは若い世代の聴衆が出てこないから。若い新たな聞き手というのが、本当にいないの。

BD:小学校の3年、4年、5年生年が交響曲のコンサートに連れていかれるってこと? もしそうなら、それはベートーベンのコンサート、それともジョーン・タワーのコンサート?

JT:そうねそれもいいと思うけど、それ以上に必要なことがある。子どもたちをただコンサートに連れていくんじゃだめ。そのコンサートから、彼らの反応が引き出せることが必要ね。子どもは地域に根づいていて、とても素晴らしいものよ。偏見や先入観もないけど、コンサートにただ行く以上のことがある。子どもたちは家で楽器を手にして、家や学校でそれを演奏するといい。19世紀にしていたように、もっと家庭音楽を楽しむの。

BD:「家庭音楽会(Hausmusik)」のような?

JT:そうそう、家庭音楽会ね。

BD:でも今の社会の動きは、こういうことをするには忙しすぎないだろうか。

JT:そうね、クラシック音楽業界にとって、今の社会は二つの問題を抱えてる。一つは宣伝の影響。もし音楽家が名前をたくさん売れば、みんなはそれは才能のせいだと思う。でもそれは間違ってる。そうじゃない可能性もあるからね。本当に人々は評価できているかどうか。イツァーク・パールマンは素晴らしいバイオリニストなのか、ただ売れてるだけなのか、本当にわかってるかどうか。それは過去の作曲家についても同じ。あれが売れ筋一番、二番目はこれ、わたしたちは数が白黒つける社会に生きてる。あまりリスクは負いたくない。何がはやってるかばかり知りたがるの。

BD:コンサートに行く前に、それが楽しめるものかどうか知りたいってわけだよね。

JT:そうそう、自分の出そうしているお金に価値があるか知りたいの。有名な人の演奏が聞けるか知りたいし、有名な曲をやってくれるか知りたいわけ。聞いたこのない名前の演奏家のコンサートには行きたくないし、知らない作曲家の曲も聞く気がしない。どうして? なぜなの? 人々は音楽や演奏家を自分で評価する、っていう喜びを忘れてしまったのかな、と思う。そういう能力が失われてしまったんだと思う。

BD:聴衆が評価する能力をもっていたとしても、それはいつも正しいものなのか。

JT:いいえ、そうとは限らない。でも少なくとも自分で評価するという創造性が発揮される。新しい音楽が生まれてくればね。指揮者がその能力を失っていたとしてもよ。

BD:指揮者全員が? それとも多くの指揮者が?

JT:全部じゃないけど、多くの指揮者がそう。「おや、面白い曲だね。わたしは好きだな」 新しい楽曲を聞いてこう言う人はわずかしかいない。

BD:あるいは「あまり面白くはないね」とか?

JT:そうね、「あまり面白くはないね。わたしは好きじゃない」 レナード・スラットキンはその点で、他の指揮者とは違う。彼は新しい音楽に対して、自分が好きか嫌いか、はっきりした意見をもってる。すべてに賛成するわけじゃないけど、自分の見解をもってるの。

BD:彼の意見でプログラムを組むことが可能?

JT:そういうこと。そして客演指揮者としてツアーを引き受けるとかね。だけどほとんどの主要な指揮者は、3メートルの竿を使ってさえ触れようとしない。どうしてなの? すごく面白い疑問だわね。彼らはどうやってその音楽を評価したらいいかわからないの。同じことがソリストたちにも言える。そこが問題。それに加えて彼らに「あなたに演奏して欲しいんですけど」と言う人がいない。言ってみてもいいでしょ。それだけじゃなくて、こうも言わない。「ジョン・スミスのこの曲が好きなんです。すごくいい曲ですから、聴いてみてくれませんか」 そういう風に言ったりもしない。

BD:ということは聴衆の教育もそうだけど、音楽家も教育する必要があると?

JT:そういうこと。現代音楽にまつわる間違った神話を広めてるからね。

*インタビュー後編「ジョーン・タワーの作曲作法」「女性作曲家と言われることについて」

Piano Concerto
ピアノ:ユーソラ・オッペンズ、マックス・ブラガド=ダルマン指揮、ルイビル・オーケストラ

 

ディスコグラフィー

Tower: Violin Concerto, Storke & Chamber Dance (2015)

Made in America (2004)

Tower: Sequoia (Recorded 1982)
New York Philharmonic & Zubin Mehta

Joan Tower: Silver Ladders, Island Prelude, Island Rhythm他 (2004)

 

記事提供元:Web Press 葉っぱの坑夫