ドイツ・ロマン派を代表する作曲家、ロベルト・シューマンの妻として知られるクララは、卓越したピアニストであると同時に、優れた作曲家でもありました。クララの出自と成長過程、音楽家としての出発、生涯を通じた功績を追いながら、その実像に迫ってみたいと思います。
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案内人
- だいこくかずえ小さな頃からピアノとバレエを学び、20歳までクラシックのバレエ団に所属。のちに作曲家の岡利次郎氏に師事し、ピアノと作曲を10年間学ぶ。職業としてはエディター、コピーライターを経て、日英、英日の翻訳を始め、2000年4月に非営利のWeb出版社を立ち上げる。
目次
神童クララの誕生
音楽家の家に生まれ、小さな頃から才能を見せていたクララのピアニスト、作曲家としての萌芽を紹介します。
出生とヴィーク一家
クララ・シューマン(1819~1896年)は、音楽教育者の父フリードリヒ・ヴィークと、歌手でピアノ教師としても活躍する母マリアンヌ・トロムリッツの次女(長女は生後まもなく死亡)として生まれました。
母マリアンヌは当時、ライプツィヒで名の知られた歌手でしたが、ピアノをフリードリヒの元で学んでいたことから、二人は1816年に結婚します。フリードリヒは12歳年下の妻に対して高圧的なところがあり、クララが五歳になる前に二人は離婚。不和による家庭内の緊張と父親の気性の激しさから、クララは四歳まで口をきかなかったとも言われています。
神童ピアニスト
両親の離婚後、父親が当時の法律をもとに親権を主張したため、クララはフリードリヒの元で育ちます。フリードリヒはクララの音楽的才能に早くから気づき、神童にすべく、厳しい音楽教育を自らの手で行いました。
父親の厳しいレッスンの元、クララはどんどん力を伸ばしていき、九歳のとき、ライプツィヒでピアニストとしてデビュー。その後も11歳でヨーロッパ各地の演奏旅行を果たし、ライプツィヒでのソロリサイタル、バイオリンの名手パガニーニとの共演と、演奏家として名をあげていきます。
1837~1838年の冬、ウィーン・ツアーが組まれ、クララのコンサート・ピアニストとしての名声はさらに高まります。演奏を聴いたショパンが、友人のリストに最大の賛辞を伝えたと言われています。またメンデルスゾーンは自作『ロンド・カプリチオーソ』のクララの演奏を聴いて、「小さな悪魔のような演奏」と言って、この曲の最高の演奏者と讃えました。
作曲家としての芽生え
作曲家としても才能を見せはじめたクララは、14歳のとき、ピアノ協奏曲(作品7)を書き、メンデルスゾーンの指揮の元、初演を果たします。リスト、ショパン、メンデルスゾーンからその才能を認められ、「新しい時代のロマン派作曲家の誕生」と絶賛されます。
生誕200年際(2019年)の演奏
クララは早熟で、10代の間だけとっても数多くの作品があり、ピアノ曲のほか歌曲、合唱曲、オーケストラ作品などを書いています(消失したものも多い)。20代以降は、ピアノ曲、室内楽曲に加え、夫のロベルトや友人ブラームスのオーケストラ作品を数多くピアノ曲に編曲しています。
ただ1856年の夫の死後は、ロベルトの編曲作品などを除いて、オリジナルの曲をほとんど書いていません。そのときクララは、30代後半に差し掛かったばかりでした。
クララの人間関係
音楽家としてクララが順調に成長し、成功した影には、いくつかの重要な人間関係がありました。
父親、母親との関係
父親のフリードリヒは大変厳しい人ではありましたが、教えを乞う生徒を多く抱える、有能なピアノ教師でした。クララは父の教えに従い、懸命に学ぶよき生徒で、また父親を尊敬し愛し、感謝していたと伝えられています。しかしクララはのちにロベルトへの手紙に「父を愛しているけれど、母親の愛を得られなかったことは不幸なことだと思う」と書いています。
母親のマリアンヌはフリードリヒとの離婚後、歌とピアノの教師アドルフ・バルギールと再婚し新たな家庭をもちます。またフリードリヒの方も、1828年に20歳年下の女性と再婚しています。
ということでクララには、実の兄弟が三人、父方の異母姉妹が二人(一人がピアニストに)、母方の異父兄弟が四人(一人が作曲家に)いたことになります。
夫ロベルトとの関係
クララがロベルト・シューマンと出会ったのは、1828年、まだ8歳のときのことでした。あるホームコンサートでクララの演奏を聞いたロベルトは、その素晴らしさに心打たれます。自分もフリードリヒの元でピアノを学びたいと思い、入門を乞います。そしてクララの家に、1830年から1831年までの約一年間同居します。
11歳のクララと19歳のロベルトの音楽を通じた深い絆は、ここから始まります。フリードリヒの元で共にピアノを学び、さらには楽曲を献呈しあうなど、高い音楽能力が二人の関係性をいっそう深めたようです。
惹かれあっていた二人ですが、クララの父親が反対したことで、結婚は保留されました。法に訴えることで1840年9月12日、やっと願いが叶い、二人はライプツィヒで結婚式をあげます。クララの21歳の誕生日の一日前のことでした。
結婚後、クララとロベルトは「結婚日記」と名づけた、共有の日記を書いていました。当初は楽しいことがたくさん記されていた日記も、徐々に行き違いが露わになってきます。「ロベルトが作曲していると、ピアノの練習の時間が取れない」という不満を、クララは結婚日記に書いています。
それでも夫妻は、(ロベルトが死の二年前に入院するまでの)13年間の結婚生活の間に八人の子どもをもうけています。一番下のフェリックスは、1854年、ロベルトの自殺騒ぎの約四ヶ月後に生まれました。
ブラームスとの関係
1853年、20歳のブラームスが、バイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムの紹介状を持ってシューマン家を訪問します。ブラームスの音楽はシューマン夫妻を感動の渦に巻き込み、以来、家族ぐるみの親しい関係がはじまります。
ロベルトの精神状態が悪化して病院に入ったのちも、ブラームスはクララ、ロベルトの両方を支え続けました。クララが医師から病院での面会を止められていたこともあり、その代理をブラームスは務めていたようです。ロベルトの死後、夫の作品を世に広めることに力を注いでいたクララを、そのそばで支えたのもブラームスでした。
クララがブラームスに献呈した『3つのロマンス』(作品21、1853年)
クララの主要作品と特徴
ピアニストとしての活動のかたわらクララは作曲を続けていましたが、1853年にデュッセルドルフに一家が越してからさらなる充実期があり、重要な作品をいくつか書きました。その中に『ロベルト・シューマンの主題による変奏曲』(作品20、1853年)があります。同じ主題で、友人関係にあったブラームスも、1954年に『ロベルト・シューマンの主題による変奏曲』(作品9) で、この主題を扱っています。
また、クララとロベルトは結婚した年(1840年)に、共同で歌曲集の制作をしています。リュケルトの詩に12の曲をつけた『愛の春』で、この内三曲(第2曲、4曲、11曲)がクララの手によるものです。クララの方は自作のみを作品12として、ロベルトは全曲を作品37として出版しています。
クララとロベルトの作曲に対する考え方には、対照的なところが見られます。クララはピアノのヴィルトゥオーソとして力が発揮できるような作品を書く傾向があり、聴衆を喜ばせることが大きな目標でした。一方ロベルトは「聴衆の好みから離れることこそが、芸術音楽を発展させるただ一つの道」と信じていました。
ロマン派作曲家の中でのクララの立ち位置は、どちらかと言うと保守派に入り、急進的な新ドイツ楽派のリヒャルト・ワーグナーやフランツ・リストとは対立関係にあったようです。クララはブラームスやヨーゼフ・ヨアヒムなどと共に、保守派音楽家サークルの主要メンバーでした。
ピアノ教師として
クララはコンサート・ピアニストとして夫の死後も、1870年代、1880年代とドイツ国内だけでなく、イギリス、オーストリア、ハンガリー、ベルギー、オランダと活動を続けました。ソロの演奏会の他、室内楽やオーケストラとの共演も多かったようです。最後のコンサートは1891年3月(クララ71歳)で、演奏したのはブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』(2台のピアノ版)でした。半世紀を超えるクララの演奏活動は、シューマン家の経済を支える主軸だったと言えます。
1878年、クララはホッホ音楽院(フランクフルト)から、開校最初のピアノ教師として指名されます。いくつかの音楽院からのオファーがあった中、条件に合うところとしてクララはこれを受け入れます。当時、女性教師はクララ一人で、担当は上級クラスの生徒(主に女性)でした。
クララの教えを受けた生徒の中には、後に教師となってイギリス、アメリカなどに渡り、そのピアノ教育法を伝えた者がいます。ジュリアード音楽院で、ジャズ歌手のニーナ・シモンを教えたカール・フリードベルクもその一人です。
エピソード
最後にクララに関するトリビア的なエピソードを紹介しましょう。
1. クララの長女のマーリエ、次女のエリーゼは、成長するとクララに代わってピアノを教えたり、コンサートツアーに付き添ったり、日々の家庭生活も含め強力なサポート役となりました。
2. 1837年冬のウィーン・ツアーでは、群衆の整理に警官が出動するほどの騒ぎに。また「クララのケーキ」なるものも登場。
3.ロベルトとクララは、対位法とフーガの研究に夢中になっていた時期があり、それぞれ作品にその成果を残しています。クララは三女ユーリエを出産する前の週に、『3つの前奏曲とフーガ』(作品16、1845年)を書いています。その中から作品16-2をお聴きください。
主な参考文献:Get to Know: Clara Schumann、FemiBio、Thea Derks、クララ・ヴィーク・シューマン(石本裕子)、あそびの音楽館、ピティナ・ピアノ曲事典、Wikipedia(日・英)、Sounds and Sweet Airs: The Forgotten Women of Classic Music(Anna Beer)