偉大な作曲家の影に女性あり。有名どころではヨハネス・ブラームスとクララ・シューマン、あるいはリヒャルト・ヴァーグナーとマティルデ・ヴェーゼンドンクの関係などがそう。ベートーヴェンの『エリーゼのために』はテレーゼ・マルファッティなる17歳の少女に捧げられているという説が有力ですし、マーラーの『交響曲 第5番』の有名な第4楽章「アダージェット」は妻アルマへのラヴレターとも言われています。

というわけで今回は、作曲家に創作のインスピレーションを授け、クラシック音楽の様式発展にも少なからぬ影響を与えたさまざまな「愛のカタチ」をご紹介。

 

「愛の歌」の元祖、トルバドゥール

「アーサー王伝承群」に代表される「宮廷愛もの」物語が成立した12−13世紀、現在の南フランス一帯には吟遊詩人兼作曲家が活躍していました。彼らはトルバドゥール( troubadours )と呼ばれ、「貴族階級の奥方への思慕」を主要テーマとした抒情詩を競うように創作。彼らの活動は約250年つづき、そんな彼らの功績(?)ゆえか、「恋愛は12世紀の発明」と評されたりもします。

最初のトルバドゥールはアキテーヌ公ポワティエ伯ギヨーム9世(1071−1126)と言われ、アルナウト・ダニエル、ベルトラン・デ・ボルン、ペイレ・ヴィダル、「トルバドゥールの師」と呼ばれたギラウト・デ・ボルネイユ、そして最後のトルバドゥールとされるギラウト・リキエなどの作品が知られています。最初のトルバドゥールが封建領主であることからもわかるように、彼らは『カルミナ・ブラーナ』の作者とされる放浪書生(ゴリアール)とは異なり、その身分は領主から聖職者、市民、商人、大道芸人とさまざま。彼らはいまふうに言えば作詞家兼作曲家で、その歌をじっさいに演奏するのは格下のジョングルールの役目でしたが、互いの身分の入れ替わりも多かったようです。また、女性詩人(トロバイリッツ)も男性詩人に混じって活動していたことが知られています。

歌われることを前提として書かれた彼らの抒情詩は当然、「音楽付き」で流布したものの、その楽曲のほうはほとんどが失われており、どのような節回しで歌われていたかは不明です。しかしラテン語が共通語だった時代に彼らはラテン語ではなく現地語のオック語を駆使して詩を書いており、そんな彼らの残した恋愛詩の形式「カンソ」は、のちのシャンソンへと発展してゆきます。

トルバドゥールの抒情詩は北フランスに伝わってトルヴェールと呼ばれる人たちによってオイル語で書かれた作品を生み出し、ここから近代フランス語の原型が誕生したとも言われています。そんな彼らの残した歌の形式のひとつ「アルバ(暁)」は、夜の逢瀬の終わりを恋人たちに告げる夜明けをテーマとした「別れの歌」。その歌詞を見ると、男女間の恋愛感情ってどこもおんなじだなあ、と思わずため息が漏れてしまうのは筆者だけではないはず。

 

——ああ神さま! 夜明けはなんて早く来るの!
ああ 夜が終わりになんかならなければよいのに
愛しい人がわたくしから離れず
夜警が朝にも夜明けにも気づかなければよいものを
ああ神さま! 夜明けはなんて早く来るの!

 

[ギラウト・デ・ボルネイユ『栄光の王、まことの光<アルバ>』]

歌合戦で腕を競ったミンネゼンガーたち

トルバドゥールたちの時代から約半世紀後、こんどはドイツで「愛の歌びと」、ミンネゼンガー( Minnesänger )と呼ばれる騎士階級の詩人たちが活躍します。なかでもとくに有名なのは「アーサー王もの」のひとつ『パルチヴァール』を書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(1170ごろ−1220?)、そしてヴァーグナーの楽劇にも採り上げられたタンホイザー(1205ごろ−70ごろ)でしょう。タンホイザーはたぶんに伝説的な人物ですが、彼の名を一躍有名にしたのはなんといっても「ヴァルトブルク城の歌合戦」。ヴァルトブルク城は宗教改革者ルターが『新約聖書』をドイツ語訳した場所として知られていますが、中世のミンネゼンガーたちが文字どおり生命を賭けて歌の大一番に臨んだ場所でもあり、城の主のテューリンゲン方伯ヘルマン1世は、ヴォルフラムのパトロンでした。

ミンネゼンガーたちの創作テーマは名誉や英雄の武勲、聖母マリア讃歌と多様でしたが、北フランスのトルヴェールたちと同様、中心をなしたのはやはり「愛」で、これはとくに「ミンネリート」と呼ばれています。またトルバドゥールの「アルバ」は、ここでは「ターゲリート」と名前を変えてふたたび登場しています。

彼らのミンネリートもまた、当時どんな音楽が付されて歌われていたかについてはほとんどなにもわかっていませんが、すでにこのころド−ミ−ソ、またはソ−シ−レなどの3度音程の積み重ねを多用していたことが判明しており、のちに長調や短調といった調性音楽へと発展してゆくきっかけともなります。そしてヴァルトブルク城のあるアイゼナハは、かの大バッハを生み出すことにもなります。

 

[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ターゲリート<朝の歌>』]

 

音楽のためなら愛人をも殺す?ブルとジェズアルド

英国は伝統的に、少年聖歌隊員からオルガン奏者や王室付き作曲家として身を立てるケースが多く見られます。ジョン・ブル(1562/63?-1628)もそんな出世コースを歩んだひとり。ルネサンス期英国の鍵盤音楽の筆写譜集『フィッツウィリアム・ヴァージナルブック』にもその名を残すほどの鍵盤楽器の名手で、その曲集には『ブルのおやすみ』とか『ブルのおもちゃ』といった奇抜なタイトルのヴァージナル小品が収録されています。

ところがこのブル、鍵盤楽器の名手のみならず、たびたび職務放棄したり未婚女性に手を出したり不法侵入騒ぎを起こしたりと、「手癖の悪さ」でも悪名高かった人。1613年には姦通罪に問われ、ついにイングランドを逃れて大陸のネーデルラントへ国外逃亡。紆余曲折の末、アントウェルペン大聖堂オルガン奏者のポストを得て、終生、その地位にとどまります。

なにかと「お騒がせ氏」だったミスター・ブルですが、大陸で送った余生ではアムステルダムの有名なオルガン奏者で作曲家のスウェーリンクとも交流があり、互いに影響を与えあったとか。スウェーリンクは「ドイツのオルガン奏者作り」の異名を取るほど、ドイツからやってきた弟子を多く育てた人で、その楽曲様式はやがてバッハへと受け継がれます。ブルから伝えられたイングランド音楽の流儀は、間接的ながらバッハにも影響を与えたと言えるでしょう。というかこの人、いま生きていたらまちがいなくセクハラ常習犯のかどで即刻クビでしょう。

姦通、ということではイタリア人貴族の音楽家カルロ・ジェズアルド(1561ごろ-1613)はもっとカゲキで、奥さんとその愛人を殺したことでその名を後世に轟かせてもいます。1590年、奥さんの不貞を疑った彼は、あろうことか手下とともに奥さんの向かった愛人の居城でふたりを殺害。報復を恐れたジェズアルドはフェラーラへと逃れます。

後半生はみずからの領地に引きこもり、罪の意識に苛まれていたとも、鬱病だったとも言われています。そんなジェズアルドの作曲技法には、当時としてはひじょうに大胆な半音階や不協和音が多く使われているのが特徴。たとえば後期のマドリガーレ作品は劇的感情の表出、といったバロック様式の到来を予感させるようなスタイルで書かれています。

 

[カルロ・ジェズアルド『美しい人よ、貴女がいないと』]

 

ふたつの愛のカタチ——ヤナーチェクとメシアン

19世紀から20世紀前半にかけて活躍した、チェコ東部モラヴィア出身の作曲家ヤナーチェク。村上春樹氏の小説に管弦楽作品『シンフォニエッタ(1926)』が登場したことで一躍有名になった感がありますが、この作品を書いた最晩年の彼には、他人さまにはとても言えない「秘密」がありました。

1917年7月、ヤナーチェクはなんと38歳(!!)も年下の子持ち既婚女性カミラ・ステッスロヴァーに一目惚れ。どうもカミラ自身は自分に好意を寄せるヤナーチェクをうまく操っていたふしがあり、ヤナーチェクの死後、彼の作品の版権を含むそうとうな遺産をちゃっかり相続してもいます。

でもこのカミラの存在がなかったら、老境に入ったヤナーチェクが『シンフォニエッタ』をはじめとする一連の傑作を書き上げる創作エネルギーを文字どおり爆発させる、なんてことはなかったでしょう。そんなヤナーチェクとカミラのあいだには600通以上もの「ふたりだけの秘密の手紙」がやりとりされていた、というからなんと筆まめな、とむしろこちらのほうがオドロキです。

わずか20日のうちに一気に書き上げられた『ないしょの手紙(1928)』は、そんなヤナーチェクの「老いらくの恋」が切々と綴られた、それじたいがアツいラヴレターのような弦楽四重奏曲。ヤナーチェクにとってカミラは創作の源、いっぽうで「貴婦人への愛」や「ミンネリート」を残した中世の吟遊詩人たちに霊感を授けたのも、とどのつまりは「人妻」たるやんごとなきご婦人。昨今のお騒がせな報道とかもおなじたぐいかと思いますが、個人的な恋愛感情というのはいつの時代も、西洋でも東洋でも、さして変わりないかもしれません。

 

[レオシュ・ヤナーチェク『ないしょの手紙』]

 

さてヤナーチェクとは対照的に、第2次世界大戦直後の1949年に初演されたメシアンの『トゥーランガリラ交響曲(1946−48、改訂1990−92)』は男女間の色恋沙汰をはるかに超越した、いわば「全人類への愛」を壮大に歌い上げた大作。オーケストラにピアノをはじめチェレスタ、タムタム、チューブラーベルといった打楽器群に、オンド・マルトノというけったいな電子楽器まで加えた大編成。なかでもオンド・マルトノは第二の主役と言ってよいくらい全編を通じて活躍、あのテルミンのような独特な唸りをあげるトレモロやリボン奏法のサウンドが、この作品の聴き手に強烈な印象を与えます。

オンド・マルトノ以上に風変わりな曲名は、作曲者によればサンスクリット(梵語)で愛や歓喜、生と死といった複数の意味を持ち合わせる単語とリズム、歌、楽章を意味する単語とを合成したものだとか。メシアン自身が、これは「愛の歌」であり「愛の賛歌」、と発言しており、また最初の主題が最終楽章に回帰して「神の栄光と歓喜には終わりがない」ことを高らかに歌う恍惚状態で全体を閉じる、と説明していることから、メシアンの戦争捕虜体験がこのようなカタチで昇華された、と言えるのではないでしょうか。

 

[オリヴィエ・メシアン『トゥーランガリラ交響曲』]

男女間の恋愛といった「個人の愛」から、「全人類への愛」へ。ここで思い出すのが、筆者の住む街の駅前に佇む井上靖の詩碑に刻まれた碑文です——「若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない」。この井上靖のことばとメシアンの「愛の賛歌」。言わんとするところは、けっきょくおなじなのではなかったかと思われてなりません。