邦楽の世界では筝の宮城道雄や、津軽三味線の高橋竹山などの第一人者がいたように、西洋音楽でも盲目の音楽家は中世のころから存在していました。「目が見えない」ということは、ものを指で触って確かめ、周囲の音を聞いて判断したり記憶したりするほかありません。こうして指先と耳の感覚、そして記憶力が超人的レベルまで鍛えられた盲人音楽家は、なかば必然的に教会のオルガン奏者になることが多かったようです。というわけで、そんな非凡なクラシックの盲人音楽家を、時代を追って見ていきます。

 

1. 終止形にその名を残したランディーニ

まずは 14世紀、北イタリアの音楽家フランチェスコ・ランディーニ(1325ごろ-1397)。彼は有名なジョットの流れをくむ画家ヤーコポの息子としてフィレンツェに生まれましたが、幼少時に天然痘のため失明します。幼くして音楽家として生きる道を選んだランディーニは早くから楽才を発揮し、歌唱や各種弦楽器のみならず、オルガン演奏や製作、調律にも長けていました。彼がオルガンを奏ではじめると、小鳥までもが囀るのをやめて彼のもとに群がり、その演奏に感動して聴き入った、という伝説まであります。

彼の作品はバッラータ、カッチャ、マドリガーレといった世俗歌曲を中心に154曲が現存していますが、本職のオルガン曲が見当たらないのは、オルガンは即興演奏が慣例だったので、とくに記譜もされず、残存することがなかったようです。

聴く者の心を揺さぶるような甘美な旋律が特徴のランディーニの作曲作法には、3度下の音から主音に回帰する終止形[ハ長調なら、シ-ラ-ドが多く使われ、このタイプの終止形はそのままずばり「ランディーニ終止」と呼ばれています。

[愛よ、この乙女を]

 

2. スペインバロックの巨匠カベソン

16世紀、ヨーロッパ大陸の西の果てのイベリア半島に、偉大な盲人オルガン奏者が出現します。それがアントニオ・デ・カベソン(1510ごろ-1566)です。

当時のスペイン音楽の技法に、西洋音楽史上はじめての変奏曲形式と言われる「ディフェレンシアス(diferencias、スペイン語で「たがいに異なるもの」の意)というのがありますが、ディフェレンシアス発展の立役者だったのが、ほかならぬこのカベソンです。

ランディーニと同様、カベソンも幼少時に失明しましたが、オルガン演奏技法を習得すると、1539年以後、スペイン王家に仕える音楽家として身を立てます。彼は「ディフェレンシアス」と、もうひとつスペインバロック特有の変奏曲様式「ティエント」によるオルガン独奏曲を数多く残しました。鍵盤音楽の大家として名を馳せたカベソンは「スペインのバッハ」の異名をとり、つづく世代のコレア・デ・アラウホとともに、スペインバロックのオルガン音楽黄金時代を築いたのです。

[ミラノのガイヤルドによるディフェレンシア]

 

3. バッハの『オルガン協奏曲』の真の生みの親 ?  オランダのデ・グラーフ

17世紀のオランダは、数多くの弟子を育てたことで知られる鍵盤音楽の大家、スウェーリンクが活躍したオルガン音楽全盛時代。この「オルガン大国」に、あの大バッハとも浅からぬ縁でつながった盲人の教会オルガン奏者がいました。首都アムステルダムのニーヴェ・ケルク(新教会)オルガン奏者、ヤン・ヤコプ・デ・グラーフ(1672-1738)です。

当時、若きバッハが仕えていたヴァイマール公国宮廷当主の弟公ヨハン・エルンストは1711年から2年間、オランダのユトレヒト大学に留学していたちょうどその折、アムステルダムでデ・グラーフがヴィヴァルディやコレッリなどイタリアの合奏協奏曲やソナタを暗譜で、しかもオルガンだけで演奏するという妙技を目の当たりにしました。ヴァイマールにもどったエルンスト公子、さっそく宮廷オルガニストのバッハにその再現を求めます。

バッハの『6つのオルガン協奏曲(BWV592-597)』として知られるオルガン編曲作品群、そしてチェンバロ独奏用に編曲された一連の作品群は、こうした経緯を経て誕生したものです。歴史に「もし」はありませんが、もし、このときエルンスト公子がデ・グラーフの暗譜による卓抜な即興編曲 / 演奏に接していなかったら、わたしたちはバッハの味わい深いマルチェッロの編曲(BWV974)も聴けなかったことになります。

デ・グラーフの即興演奏については高名な音楽理論家マッテゾンがたいへん貴重な証言を書き残しており、どのような演奏だったかを偲ぶことができます。

「(…デ・グラーフ氏は)、3声、4声からなるあらゆる最新のイタリア協奏曲、ソナタ等を暗譜しており、小生の目の前で、彼のすばらしいオルガンを駆使して驚くべき正確さで演奏した」――『保護されたオーケストラ』、1717年

 

4.「六点点字」の発明者ブライユと、壮絶な死を遂げた弟子ヴィエルヌ

ロマン派音楽の時代の盲人音楽家としては、フランスのルイ・ブライユ(1809-1852)とルイ・ヴィエルヌ(1870-1937)を挙げなくてはなりません。

ブライユは「六点点字」の発明者としてつとに有名ですが、国立盲学校で教鞭をとる傍ら、教会オルガン奏者も務めていたことはあまり知られていません。音楽家としてのブライユは、あのメンデルスゾーンにも絶賛されたというほど、豊かな才能の持ち主だったと言われています。

ルイ・ヴィエルヌは国立盲学校でブライユの門下生だった人で、このヴィエルヌ少年の音楽の才をいちはやく見抜いたのが、やはり教会オルガン奏者で、声楽曲『天使のパン』の作曲家としても有名なセザール・フランクでした。

ヴィエルヌは1937年6月2日、ノートルダム大聖堂で定例演奏会を開きました。ところが演奏会の最後、自作にもとづく即興演奏をおこなっている最中に心臓発作(卒中とも伝えられている)を起こし、そのまま帰らぬ人に! 生前の彼は、「ノートルダムのオルガン演奏台で一生を終えるのが夢だ」とよく話しており、その願望を叶えた最期でした。でも見方を変えれば、オルガン奏者にとってはまさに理想的な死を遂げたと言えるのかもしれません。

ヴィエルヌはいわゆる「オルガン交響楽派」のひとりで『オルガン交響曲』を数曲残していますが、もっともよく演奏されるのは、『組曲第3番 op. 54(1927)』に収められた「ウェストミンスターの鐘」でしょう。

[ウェストミンスターの鐘]

 

5. バッハ演奏の「伝統」に反旗を翻したヴァルヒャ

現代における盲人の名手とくると、フランスのジャン・ラングレ(1907-1991)とガストン・リテーズ(1909-1991)、そしてバッハのオルガン作品の演奏と録音に一生を捧げたドイツのヘルムート・ヴァルヒャ(1907-1991)を忘れるわけにはいきません。

ラングレとリテーズは幼少期に視力を失い、ヴァルヒャのほうは乳児期に受けた種痘接種の後遺症のため、16歳のときに完全に失明しています。

ラングレ、リテーズはともにヴィエルヌの弟子だったマルセル・デュプレのもとでオルガン演奏および即興演奏を学び、リテーズは盲人奏者としては史上はじめて、ローマ賞作曲部門で第2位を獲得するという快挙を成し遂げてもいます。デュプレにラングレを紹介したアンドレ・マルシャルも盲人オルガン奏者・作曲家で、即興演奏の名手でした。

いっぽうヴァルヒャは指揮者アルトゥール・ニキシュに見出され、15歳でライプツィヒ音楽院に入学。毎朝7時きっかりに音楽院の扉を叩き、当時のトーマスカントル、ギュンター・ラミンのもとでバッハのオルガン作品を学ぶという典型的模範生でした。17歳のときに初のオルガンリサイタルを開き、鍵盤楽器奏者の道を歩みはじめます。

そんな模範生ヴァルヒャでしたが、しだいに彼の中でカール・シュトラウベ以来の、いわゆる「ライプツィヒ・オルガン楽派」という「伝統の縛り」に対する疑問と、そこから解放されたいとの思いが募るようになります。1929年、ヴァルヒャはついに拠点を旧西ドイツのフランクフルト・アム・マインに移し、以後1991年8月11日に83歳で没するまで、この地にとどまって精力的に活動するようになります。そんなヴァルヒャがフランクフルトへ移転したとき、恩師ラミンは愛弟子の伝統からの離反をけっして許そうとはしなかったと伝えられています。

ヴァルヒャは40歳の誕生日までにバッハの現存する鍵盤作品を、なんと版の相違にいたるまですべて暗譜するという、デ・グラーフも顔負けの驚くべき離れ業をやってのけました。フランクフルト音楽大学オルガン科教授となったヴァルヒャは世界中から彼の名を慕って集まってくる数多くの後進を育てましたが、その名を不動にしたのは、やはり「バッハ・オルガン作品全集」をモノラルとステレオそれぞれで録音を残したことでしょう。ヴァルヒャのレコードを聴いて、その内声処理の鮮やかさと深い精神性をたたえた演奏に、文字どおり心洗われる思いがしたバッハ好きは多かったはずです。

[フーガの技法 BWV1080]

 

辻井伸行氏がヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したとき、ある審査員は「ペンを置き、ただ目を閉じて聴き入っていた」と述懐し、とりわけタッチの美しさを絶賛しました。盲人音楽家には演奏行為という介在を超え、純粋に音楽そのものを差し出す才が備わっていることを示唆するエピソードではないでしょうか。